中津川の中山道



沿道を訪ねて 落合地内 与坂の番所・落合徳利・八幡神社・水戸浪士の墓

◇59.与坂の白木改番所
 かっての尾張領の各地には木曽の木が流出するのを防ぐため、取締の白木改番所が設置されていたことは既述の通りである。この与坂にも1745年(延享2年)10月番所が設けられたことが記録に残る。ここには37年程置かれ、1782年(天明2年)には、ここの番所は中津川上金に移った。その位置については、『濃陽志略』には、“官舎駅の西に在りその地名づけて与坂と言う尾藩官吏・軽卒をして代わって之を守らしむ”とあり、『岐蘇路安見絵図』には街道筋左側にあったことがわかる。



◇60.落合(与坂)徳利

 昔この辺りでは徳利が造られ売られていたという。外見は黒釉に胴体の横に竹へらの切跡を付けた形のものである。作者は美濃大平辺りからの移住者が、与坂の土で焼いたものと考えられている。



◇61.八幡神社

 与坂の曲がりくねった坂を下ると、右側の森が八幡神社である。神社の祭神は『美濃古蹟考』には、落合五郎を祀り五郎の兜を伝えると書かれている。しかし祭神は応神天皇−誉田別命(ほむたわけ)−と考えられる。神社の創建は古く1585年(天正13年)といわれ、残る棟札は1610年(慶長15年)で落合宿役人市岡喜平治建立とある。 昔から落合一村の氏神で、祭日は10月9日である。一名鰯祭りとも呼ばれ、直会に鰯を使っており、1883年(明治16年)には鰯の数は八百を数えたと言われている。この風習のいわれについては不明である。


◇62.水戸浪士の墓−熊谷三郎の墓−

 下与坂を過ぎ、西山橋左手の小高い丘に墓地がある。墓地の片隅に水戸浪士熊谷三郎の墓がある。この墓は幕末の1864年(元治元年)尊王攘夷を旗印に、兵を挙げた武田耕雲斎ら水戸浪士(天狗党)の一行は、西上の折り11月26日清内路村から落合宿にはいった。800余人の隊員達は馬籠宿と落合宿とに分宿した。その折り党規違反のかどで7人掛かりで三角屋敷で打ちとられ、のち此処に祭られたと伝えられている。三五沢にも処刑されたと伝えられる無名墓石も祭られている。水戸浪士達の余りにも悲しい話である。