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沿道を訪ねて 茄子川地内 愛宕社・岩村秋葉への道・篠原家・薬師堂
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◇4.愛宕社
街道の右手、愛宕社は鯉か平の氏神である。この社の由来は茄子川の庄屋篠原長八郎が、天明の飢饉の折り貧民救済として、自分の土地であった「せんばケ洞」を開墾させ約400a(4町歩余)の水田を作った。その開墾の折り多くの人骨や武具が掘り出されたので、これを納めて愛宕神社を建立したといわれている。篠原長八郎の墓は中山道西側にある。また墓地入口道端には馬頭観音・妙見尊等が祭られている。
戦場ケ洞の話は、大井城主であった藤井常守は苗木城主遠山友政が攻め寄ると聞き、戦場ケ洞で迎え撃ち、敵の矢17本を受けたまま常守は討ち死にしたという話が残っている。
坂を下ると鯉ケ平の部落に着く、やがて道は平坦になる。人家疎らかな道を進む。
◇5.岩村・秋葉山への脇道
『延絵図』には、「脇道岩村へ道法四里、遠州秋葉山へ二十八里」と書かれている。岩村方面や秋葉山参詣の人々の通った道である。この別れ道の左右には立派な秋葉灯籠が立てられている。向かって右側の常夜灯には「是よりあきはみち」と刻まれ道標も兼ねている。特に昔の人々は火災を恐れ、火難よけ(火伏せ)の信仰は盛んであり、そのため秋葉山に参詣する人は多かった。
◇6.篠原家
秋葉道分かれの曲がり角に、茄子川村の庄屋役を勤めた篠原家がある。代々長八郎を襲名したこの家は、中津川宿と大井宿との間の距離の遠い関係で、通行の大名や武士らの小休や時には休泊にも利用された家である。和宮輿入れの折りには、休息に利用されたとも伝えられる。1880年(明治13年)6月、明治天皇が山梨・三重両県から京都巡幸の途中、16日には篠原家で小休息をされ、大井に向けて出発された。その折りの休息部屋は、現在もそのまま記念に保存されている。門の前の大きな「明治天皇茄子川御小休所付御膳水」の石碑が建てられその記念とされている。
◇7.薬師堂
茄子川でもこの辺りは町屋をつくっている。左側町裏には、薬師堂があり『筋道之記』には、街道から約50m(30間)入るとある。現在程医学の発達していなかった当時は、信仰によってその悩みや苦しみを救われようとした。どこの地域にも薬師堂は多く祭られている。
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