中津川の中山道



沿道を訪ねて 茄子川地内 村境・石拾ヒ茶屋・寺居山五百羅漢

◇1.村境
 大井宿と茄子川村との村境は、『大概帳』に境杭2か所あるとし、小川(用水抜き)を境にし大井宿側の道の左右に立っていた。従ってこの用水を渡れば茄子川村となる。境には現在恵那市が建てた『中山道』と刻んだ石碑が立っている。ここが境となる所である。



◇2.石拾い茶屋

 村境から少し、やがて緩やかな広久手坂を登り詰めると石拾い茶屋に着く。1789年(寛政元年)には茶屋が二軒あったと『筋道之記』に記されている。現丹羽家の庭の南角に「地蔵尊」が祭られている。その隣には五百羅漢への「道しるべ」も建っている。案内のとおり道を左手にとれば五百羅漢に至る。丹羽家はかって此の地方の大切な産業で、その名声を誇った茄子川瓦の生産を行っていたが、茄子川の瓦も時代の波に押され今は操業する人もなく、残された工場だけが往時を物語っている。



◇3.寺居山五百羅漢

 茄子川の寺居山に五百羅漢が祀られている。この地に五百羅漢の建立を思い立ったのは、1794年(寛政6年)上総(かずさ)国越山和尚が尾張へ向かう途中、親交のあった茄子川村の勝半蔵宅に立ち寄ったのがその縁となった。二人はその夜は旧交を暖め、翌日半蔵は越山和尚を寺居山に誘った。ここは怪石・奇石の霊境である。涼しさを求めて松の木陰でしばらく休息をとっていると、向こうの地中に古い木造の尊像が現れた。観音像である。こここそ仏縁の地である。越山は自分の師宗龍禅師の石仏五百羅漢建立の遺言を思い出し、この地こそ最適の地である。そこで勝半蔵にその労を頼んだ。半蔵は地元茄子川村の人々の助けをかりて五百羅漢の建立にかかった。半蔵は村方の説得さらには尾張藩の寺社役所へ建立の手続きと多忙を極めた。また建立に要する費用集めも「歓化帳」を作り進めた。藩から五百羅漢建立の許可が下りたのは、出願から足かけ5年目であった。その間半蔵は自ら寺居山の開墾をはじめ諸準備を進めていった。石仏は施主を募りその助けをかりることとした。歓化の序文によると、「十六羅漢一体は金一両・五百羅漢は一体金二分」とある。
 1799年(寛政11年)待ちに待った五百羅漢の開眼供養の日が来た。発起願主越山和尚はこの日を待たず前年死去した。開眼の日は本尊及び両尊、十六尊者その他二十七体の開眼供養であった。その席には僧三十人、餅六十櫃をなげて参詣人何千人とも知れず大繁盛と記録に残る。そして毎年少しずつ羅漢像は補充されていった。しかしその中心人物、勝半蔵も1804年(文化元年)8月9日五百羅漢建立の志半ばでこの世を去った。現在残る石仏の建立点数は130体程で、その大部分は長い年月の間部分的に欠損及び大破の尊像が多い。1959年(昭和34年)地元中切の人々のお陰で、大々的な修理が行われ、また供養も行われた。現在は4月の第二日曜日に供養が行われている。
 この地には、五百羅漢建立の祈り中切から阿弥陀堂が移築され、また弘法堂も建立され信仰の場として大切な役割を果たしている。