中津川の中山道



宿の成立と構成 宿泊施設

 宿場には長旅の人々のため、宿泊や休息する場所が設けられていた。3代将軍家光によって参勤交代(さんきんこうたい)の制が定められてからは、約300余の諸侯が江戸と領国間を、大名行列をなして往来することとなった。そのため各宿場には、多くの従者達の休泊の場所や、大名や上級家臣及び幕府の役人等通行には特別な休泊施設が必要となった。こうした人々の休泊施設を本陣と呼ぶようになり、またその補助施設を脇本陣とよんだ。更に一般の家臣や庶民の旅人達の休泊する場所を旅籠屋(はたごや)と呼んだ。

◇本陣

 参勤交代する大名をはじめ、勅使・公家や幕府の役人など高級旅行者の宿泊施設である。こうした宿泊の本営が直接うかがえないように、その防備のため宿の中に鍵の手に故意に作られた桝形と呼ばれる部分が設けられているのが一般的である。中津川宿も落合宿も宿の出入り口には桝形が今でも残る。こうした本陣は宿内でも主要な所に位置し、名門の家が指定され高い格式を備えていた。
 建物は立派で表門・玄関・上段の間等を備え、建築・修繕等は幕府や領主の費用によって賄われた。諸侯たちが利用する場合は、事前に宿へ「先触」(さきぶれ)をもって予約した。宿では写しをとって次の宿へ廻すとともに必要によっては人馬の手配もした。本陣は当日までに修理や清掃を終え、玄関には定紋(じょうもん)付きの幕を張り、提灯(ちょうちん)を掲げた。また他家との差し合いを避けるために「関札」(せきふだ)を掲げた。当日は当主は礼装で宿はずれまで出迎えに行き、行列を案内して表門から上段の間に案内した。
 本陣には大名とその側近の者が泊まり、家臣は身分の違い等でそれぞれの宿舎に分宿した。宿泊の当日は宿場内には所々に番所を設け、夜通し非常警戒に当たった。夜は本陣ではその土地の名物を調理したり、土産物を献上したりした。諸侯たちも宿泊料・茶代等としてお金の他特別身の回り品を与える事等もあった。中津川市内では落合の本陣は、一部当時の遺構をそのまま伝えている。しかし中津川の本陣は今は無く、注意しないとその位置さえ見落としてしまう。




◇中津川宿の本陣

本陣は一軒で、現在のNTTの前、駐車場になっている付近にあった。今は昔を語るなにも無い。僅かに当時の間取りを示す案内板がその位置を教えてくれる。『宿明細書上帳』には、「本陣凡建坪弐百八十三坪門長屋玄関付本町市岡長右衛門」とある、代々市岡家がその任にあたってきた。現在の市岡家には元本陣の欄間・古文書等の遺品が伝わる。
規模・構造等については平面図に見るように、長屋が6軒続きその中の一つが門となり、隣は問屋場となっていた。表門の正面は内玄関と縁3間半の荷置場があった。表庭の左に中門があり、入って右手に一坪の板敷の番所があった。高塀で囲われた中に玄関があった。その奥が玄関の間(18畳)が、続いて3の間(12・5畳)、次の間(10畳)、中の間(10畳)、上段の間と続いた。上段の間は9畳で、床の間上畳が2畳敷かれ備後表大紋縁付きであった。上段の間には入側(いりがわ)(1間通りの通路4畳)とその奥に、湯殿・上り湯・小用所・雪隠(せっちん)がついていた。入側の外には濡れ縁があり、庭となり高塀になっており御退道の門戸があり、非常の折には大泉寺へ避難出来るようになっていた。屋根は「取板」とあるから枌板(そぎいた)で葺いてあったと考えられる。


◇落合宿の本陣

 落合の本陣は中町にあって本陣は井口五左衛門とある。門構え玄関付き建坪は約436m2(132坪)であった。坪数で見る限り中津川宿の約半分程の規模であったことがわかる。その点では中津川宿の本陣は規模の上では、美濃路でも群を抜いていた。しかし落合宿の本陣は昔の遺構をのこしている点では、中山道でも数少ない一つである。しかし1881年(明治14年)大修理され、平屋建板葺きが一部二階建瓦葺きとなった。そして現在も井口家の住まいともなっている。
 落合宿は文化期に2度におよぶ大火に見舞われ、宿場は致命的な打撃をうけた。表門は1804年(文化元年)の大火の折、加賀の前田家より贈られたものと伝えられている。門を支える両脇の柱は1尺角で、門の間口は3.15m、幅は前面で8.20mある。扉の板は幅50cm程の無傷のケヤキが4枚使われているとのことである。
 表門を潜り中に入ると、厚さ22cmの壁を巡らした土蔵造りの建物となる。ここが曾ては大名たちの宿泊した本陣である。玄関へ入ると板の間がありここから各部屋に通じている。一番の奥に上段の間がある。次の間から上段の間をみると、両脇の襖にはさまれて二枚の簾が下がっており、その奥に上段の間が見える。上段の間近くには非常用の抜け穴があり、善昌寺裏へ通じていたとの話であった。また欄間を通して小姓と話が出来たという。小姓の間の天井の一隅は3尺4角が上へ開き、ここに忍びの武士が潜んで上段の間を警護したとのことである。なお欄間は上段の間からは丸く見えるが、裏側の小姓の間から見れば正方形の障子がかけてあるに過ぎない。また腰板なしの障子が取り付けられている場所もあり、上段の間に忍びこもうとしても、その姿が障子に映るように設計されていた。従って姿見の障子とも呼ばれたそうである。本陣は桧をもちいる事が許されており、壁も土の中に松の皮を細かくして塗り込まれていたとのことで、色は暗い焦げ茶であった。
 本陣の宿泊の記録をみると、1807年(文化4年)には小休5件、宿泊1件とあり宿泊の少ないことがわかる。したがって落合本陣では一般客の宿泊もさせていたことが記録に残る。これと対照的に中津川宿は大通行の宿泊が多く、下宿を引き受ける旅籠も潤い、宿全体に活気があったこが記録等で伺える。


◇脇本陣

本陣の近くにあるのが一般的で、本陣の差し支え等に利用され、その位置も宿場の中心にあった。規模は本陣に準ずる大きい構えで、家老などの上級武士の宿泊所にあてられる場合が多かった。


◇中津川宿の脇本陣

中津川の脇本陣は、その旧状を留めない。現在の中津川NTT(電報電話局)の敷地内にあった。その位置には現在「明治天皇行在所」の碑が建っており、ちょうどNTTの南外れの位置となる。『宿明細書上帳』には、面積約420m2(約128坪)本町森孫右衛門とある。


◇落合宿の脇本陣

落合の脇本陣は本陣井口家のすぐ前の塚田家であった。『大概帳』には、面積およそ300m2(約90坪)門構え玄関無しとある。ここに問屋場もあり、また山村方の庄屋も兼務していた。



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