中津川の中山道



宿の成立と構成 宿駅の成立

 戦国の終わり頃の東濃は、織田氏と武田氏がこの地をめぐって争った。最初は武田と結んでいた木曽谷の木曽義昌は、やがて信長に傾き木曽谷における自らの安泰をはかった。この頃から木曽谷をはじめ、中津川付近の伝馬が行われていたのではないかと言われている。1593年(文禄2年)常陸国(ひたちのくに)佐竹家の家臣大和田重清が、九州肥前(ひぜん)名護屋から中山道を経て常陸に帰る道中の日記が残る。その中に「…廿六みたけ(御嵩)よりをち合(落合)まで十二里 ヲク手(大久手)ニ馬ナキニ付カマト(釜戸)ヘマハル 太島と云所迄五里 四十三文 太より大井迄三里 卅文 井(大井)より中津川まで廿一文 中(中津川)より落合迄十一文 大井ニテ御酒食籠上ル…」とあり、馬を雇って旅をしていることが伺える。このことは既に馬が用意されていたことを意味する。また1601年(慶長6年)10月伏見から中山道を経て、奥州米沢に赴く前田慶次の日記には「…廿九ヲクテ(大久手)ヨリ中津川ヘ六里ここも名におふ大井の宿駒ば(駒場)のはしをわたり中津川に付椎のはおりしきていひかしきなとす中津川ヨリまご目(馬籠)へ二里…」とあり、江戸以前から中山道の道筋は既に整い、伝馬が行われていたことが伺われる。
 中山道の整備に貢献したのは、家康の腹心であった大久保長安で、そのもとに木曽の山村甚兵衛道祐(中津川村他の領主)がいた。長安によって1601年(慶長6年)には、木曽谷に継ぎ立ての制が取り入れられた。美濃国では1602年(慶長7年)2月御嵩宿に「伝馬掟朱印状」が与えられている。中津川宿に伝馬のしくみがしかれたのは何時か、残念ながら確定はできないが、山村道祐の支配地でもあり、地形上木曽谷の入口に位置し、伊那谷・飛騨への分岐点で交通の要所である中津川宿。この付近の政治・経済の中心地中津川・落合にいち早く宿駅が整備されてくるのは当然と考えられる。


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